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歩みを知る

挑戦のDNA

タムラの歴史は、挑戦の歴史です。その歩みは、昭和初期という時代に世界の一流品を目指した創業者から始まり、そして今も未知の分野に果敢に挑み、オンリーワンの製品を追求する開発者たちへと続いています。タムラに脈々と受け継がれてきた挑戦のDNA、3つのストーリーを紹介します。

Story001

世界の一流品を自ら生み出す
エンジニア魂

高性能な低周波トランスの
国産化に挑む

1924〜1939

田村得松が独学で開発したトランスからタムラの歴史は始まった。放送用から普及品まで、自社トランスの草創期をたどる。

田村得松

1886年(明治19)生まれ

P72型低周波トランス
P72型低周波トランス

タムラの創業者。時代の先駆者として、高性能な低周波トランスの国産化を成し遂げた。世界の一流品を目指す姿勢がタムラの礎となっている。

1924年

時代を読みトランス開発を

新宿百人町に田村ラヂオ商会を設立
新宿百人町に田村ラヂオ商会を設立

1907年(明治40)、20歳の田村得松は単身渡米し、自動車技術者として働きながら当時の最新技術を修得しました。エンジニアとして日本で身を立てようと、1922年(大正11)に帰国。
米国でのラジオ普及や日本での試験放送に立ち会った経験から、「日本にもラジオの時代がくる」と考え、独学でラジオの受信機をつくり、1924年(大正13)に田村ラヂオ商会を設立します。
ラジオの故障修理を手がけるうち、原因の多くがトランスにあることに気づきますが、高価な輸入品は修理に使えません。そこで得松は「トランスを自分の手でつくる」ことを決意。米国から文献を取り寄せ、試行錯誤を繰り返し、巻線機や測定器も自作しました。
まだトランス専業メーカーが国内になかった時代、優秀な海外製品に匹敵するトランス開発に挑み、トランスメーカーへの第一歩を踏み出します。

1934年

海外の一流品に負けない。

1935年頃の田村得松(写真中央)
1935年頃の田村得松(写真中央)

1932年(昭和7年)、レコード会社の依頼で開発した電気蓄音機の音質が高く評価されます。さらに性能を上げようと、トランスを巻いては視聴を繰り返し、音質を改善していきました。
この時の成果が、“高音質を実現したトランス製品”として発売につながります。1934年(昭和9年)、電気蓄音機の音質を格段に向上させるP72型低周波トランスを開発。
「海外の一流品に負けていない、むしろ優れている」と評判を呼びました。
1936年(昭和11)には、放送用にも使えるさらに高性能な新商品として、P100型を開発。ここから放送用トランスの開発が本格化し、実用新案に登録されたK型トランスは日本放送協会(NHK)に多数納品されました。
こうした開発により「トランスのタムラ」の名が広く知られていくことになります。

1939年

電子機器メーカーへ飛躍。

1939年(昭和14年)、社名を「株式会社タムラ製作所」とし、町のラジオ店から電子機器メーカーへの飛躍を宣言しました。代表取締役に就任した得松は、「必ずしも大会社になるを欲せず、されどその製品は世界第一流品たらざるべからず」という経営理念を表明しています。P72型低周波トランス、P100型シリーズ、超小型トランスのK型シリーズなどを中心に、NHKの技術研究所、地方放送局、音響関連メーカーなどに向けて、高性能トランスの製造を行いました。
その後、戦中戦後の動乱期にもトランス製造を続け、1950年代の高度成長期にトランジスタラジオが登場すると小型トランスの需要が一気に増大。
タムラ初となる民生品の大量生産を手がけ、海外輸出もスタートし、世界へと飛び出しました。

〜創業者の想い〜

『私は常に考えますが、技術者と言う者は日常、何かしら技術に関する問題を頭に持っている人でなくては進歩する人でないと思います。昨日今日入社した人でもタムラで仕事をする以上、自分のしている仕事に対して何かもっと良い方法はないか改良する点はないかと、すぐ頭に問題を起こす人でなくてはなりません。そんな人は将来必ず立身出世の出来る人であります。
 私は昔から普通ということがきらいです。すべてのことを普通以上にやりたいのですが、仲々思う半分も出来ません。タムラに働く人は、どうか普通以上に勉強して貰いたい。普通以上の技術者になって貰いたい。仕事を普通以上にやって貰いたいのです。』

(得松が手帳にしたためた文より引用)